tn3のブログ

野村忠央です

48. 松平定信と溜詰大名、伺候席

 大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第30回「人まね歌麿」(2025年8月10日放送)で松平定信(井上祐貴)が溜詰(たまりづめ)大名に格上げされる場面が描かれるが、老中就任の足掛かりとなる重要なことである。

 定信は八代将軍徳川吉宗の孫であるので親藩であると思っている人が多いと思うが、譜代大名である。*1親藩は原則、幕政に参画しない。老中、若年寄等、幕政に参画するのは譜代大名である。

 大名の格付けは実はいくつもある。(1)一番わかりやすいのは加賀百万石などの石高である。(2)将軍家の親疎による親藩、譜代、外様の区分はよく知られている区分であろうが、水戸光圀は石高で言えば、102万石の前田家と比して、28万石に過ぎない。*2(3)見た目にわかりやすい格付けとして、国持大名か城持ち大名かがある。国主、準国主、城主、準城主、陣屋、居館などである。忠臣蔵浅野長矩は5万3千石の外様大名従五位下内匠頭であるが、播磨赤穂藩の国主、城持ち大名である。(4)身分としては、 46. 『大岡越前8』最終回(2025年)で描かれた天一坊事件 - tn3のブログ の注4でも記したように、官位官職(初任の官位官職、極位極官)がある。将軍家は大臣、尾張家、紀州家は従二位権大納言、水戸家は従三位中納言などである。

 (5)そして、江戸城内で重要なのが詰所の部屋である。これを伺候席(しこうせき)と呼ぶ。大廊下、大広間、溜詰、帝鑑間、柳間、雁間、菊間広縁の7つがあった。

 伺候席 - Wikipedia

大廊下上之部屋は御三家が、下之部屋は加賀の前田家が、大広間は薩摩の島津家、仙台の伊達家などが詰めるなどである。そして、譜代大名は溜間、帝鑑間、雁間、菊間広縁(菊間縁頬)に詰めるのだが、その中でも溜間(黒書院溜之間((くろしょいん たまりのま))詰大名は徳川四天王の酒井家、本多家、榊原家、井伊家(石高は一番上の35万石)を含め、譜代大名の格式高い家が詰め、*3幕府の重要事項の諮問も受けることとなっていた。*4第30回の『べらぼう』ではそれが描かれていたのである。

 最後に、町奉行を務めた大岡越前守忠相は旗本であったが、長年の貢献により、60歳で寺社奉行となり、大名格に列せられた。*5しかし、寺社奉行は三十代の若手の譜代大名がエリートコースを歩む際の役職で、奏者番(そうじゃばん)を兼帯するのが通例である。だが、忠相は奏者番を兼帯していなかったので、その控室に入れてもらえないというイジメを受けていた。それに気付いた吉宗が気の毒がって専用の控室を作った。そして、忠相が加増されて1万石の大名となり、本来の奏者番兼帯となったのはそれから12年後の1748年のことだった。町奉行から寺社奉行、大名になったのは忠相のみで名誉なことであろうが、当時の忠相は既に70歳を過ぎており、肩身の狭い毎日であったと想像する。*6

*1:ドラマで定信の家紋が三つ葉葵ではなかったことに留意されたい。但し、白河松平家、遡って久松松平家は家康の異母弟松平定勝(父は久松佐渡守俊勝、母は家康の母でもある於大の方)を始祖とするので、家格は高かったと思われる。

*2:三代藩主水戸綱條の時にようやく35万石となる。尾張家61万9500石、紀州家55万5千石に比べて明らかに低い石高である。本文(4)で記す極位極官位の点でも同様である。

*3:御三家以外の親藩を御家門と呼ぶが、その最上位とされた越前松平家(家康の次男結城秀康の系統)は大廊下下之部屋に、会津松平家(家光の弟保科正之の系統)は溜詰であった。また、御連枝の高松松平家(水戸頼房の長男松平頼重の系統)も溜詰であった。なお、家光の男子である館林徳川家(館林宰相綱吉)、甲府徳川家(甲府宰相綱重)は御両典と呼ばれるが、御両典が存在していた時期は大廊下上之部屋に詰めていた。

*4:ほとんどの譜代大名は帝鑑間詰である。大老は井伊、酒井、土井、堀田の四家から出されていたが、土井家、堀田家は帝鑑間詰大名である。大老格の柳沢家も帝鑑間詰となった。

*5:寺社奉行は三奉行の最上位で大名が就くべき役職である。それに対し、町奉行勘定奉行は旗本の役職である。

*6:この段落の内容、大石慎三郎徳川吉宗のその時代ー江戸転換期の群像』(中央公論社、1989、pp. 92-94)、参照のこと。